COLUMN

「英語は英語で考えろ」という理想論と現実

2021.11.22

世の中にはもっともらしく聞こえるが、「それができたら苦労しない」考えがしばしば存在する。「同時通訳の神様」と呼ばれた國弘正雄氏の言葉を借りるなら、「ヒットを打つなんて、いたって簡単で、人のいないところへ打てばよい」「ピッチングもいたって簡単で、打たれないところへ投げればよい」という類ものだ。それができないから、皆、苦労してるのである。

「英語は英語で考えろ」は「それができたら苦労しない」考えの典型だ。初級レベルの学習者がそう心がけたら、話したい内容が余計に浮かんでこなくなる。しゃべる前の思考の段階から言語が必要なのに、それをできない言語で思考するなどできるわけないからだ。私の経験から言えば、「英語を英語で考える」のは、英語学習を重ねた結果たどりつく境地だ。しかし、世間では、「日本人は英語を英語のままで考えないからしゃべれない」「英語を英語のままで考えれば、しゃべれるようになる」という考えが喧伝され、支持を得ている。じつに嘆かわしい。

以下を読んでみてほしい。

これから日本語を学ぼうとするアメリカ人に、いきなり「日本語が上達する秘訣を教えてあげましょう。それは日本語で考えることです」と助言したらどうでしょう。「おまえはクレージーか。冗談もほどほどにしてくれ。ニホンゴを知らないのに、どうしてニホンゴで考えられるというのか」と一笑に付されてしまうでしょう。考えてもみてください。そもそも英語で考えられるという域に達していれば、なにも英語の学習などやる必要はないのです。わたしたちは英語で考えられないから英語を学んでいるのです。初心者に「英語で考えろ」というのは、たんなる非現実的な理想論でしかありません。 (中略) 同時通訳者として名高かった國弘正雄氏は「英語ができるようになったから英語で考えることが可能なので、それは結果であって、断じて途中のプロセスではない。英語を教えてくれもしないうちから、英語で考えろ、など、まさに一知半解の説にすぎない」と真っ向から批判の矢を放ちました。
里中哲彦『日本人のための英語学習法』

上記書籍には、國弘氏以外の有名同時通訳者や英語講師たちの見解も載っているが、みな、同じような考えである。興味のある人はご一読を。

ということで、「英語は英語で考える」というのは理想ではあるが、そう心がけて出来るようになるものではない。

よく、「英語を英語で考える」の例として、「apple」という単語を使うときに、「りんご」という日本語からではなく、「りんご」の「イメージ」から「apple」という単語を引き出して使うべし、みたいなことが言われる。大人の会話では、「This is an apple.」 のような具体的な物の描写よりも、もっと抽象的な概念を持ち出して会話をすることが多い。そんな抽象概念を心がけ一つでいきなり「イメージ」として思い浮かべるのは不可能だ。聞いて理解する場合も同様である。いずれも、心がけ一つで出来るようになるわけではなく、音読などの反復トレーニングを通して、結果として出来るようになるものだ。

英語学習(特にスピーキング)のゴールの一つは、「自動化」だ。教習所で運転を習いはじめた頃は、シートベルトをかけ、キーを回し、サイドブレーキを外し、ギヤを入れ、ウィンカーを出し、左右を見てからアクセルを踏む、といった一連の動作は「意識」しなければできない。しかし、それを繰り返すうち、いつの間にか「自動化」して意識せずできるようになる。英語も同じことである。ネイティブの音声を真似して行う音読(興味・憧れを持てたり、実用的な会話など、モチベーションをもてる題材が望ましい)などをしつこく、しぶとく、繰り返し行うことで、気づかぬうちに少しずつ、日本語が意識にのぼることが減っていく。さらに音読する題材を増やしていく。こうして、日本語を介さなくともアウトプットに使える音声表現のストックが増えていく。「自動化」が進むということは、結果として「英語は英語で考える」という理想に近づくことだ。 「自動化」そして「英語は英語で考える」という状態は、日々の地道な学習・トレーニングの賜物なのだ。決して、「英語は英語で考える」という心がけひとつで実現するものではない。

「英語は英語で考えろ」というフレーズは、英会話ビジネスに誘導する際によく使われる。情報が氾濫するネット社会、もっともらしい殺し文句に遭遇したときは、盲目的に信じず、掘り下げて考えたいものである。

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